昨日の土曜日は、西宮市男女共同参画センターで、私が参加しているグループの講演会がありました。タイトルは「すべての命と生きる喜び」、講師は、「脳性まひ者の生活と健康を考える会」の古井正代さん。
母体血検査は、2013年に始まった出生前検査。妊婦の血液を採取して、胎児に含まれるDNAを検査し、染色体異常の有無を検査するものです。染色体異常で見つかる病気は、ダウン症、18トリソミー、13トリソミーです。2013年4月~2014年3月までの1年間にこの検査を受けた人は、7775人、陽性と判定された人は1.8%にあたる141人。その後詳しい検査である「羊水検査」を受けた人は113人、そして、中絶をした人は110人という状況になっているそうです(NIPT(新出生前診断)コンソーシアムの発表より)。
誰しも、子どもは五体満足で生まれてほしいと願うものでしょう。しかし、五体不満足なら不幸なのか?生まれてくる前の子どもに確かめたのか?と古井さんは話します。
古井さん自身脳性小児まひで生まれ、余命は11年と診断されました。悲観した母は産院から帰る途中に母子心中を考えたそうです。同行していた父親(古井さんのおじいさん)がとどめ、彼女の人生はスタートしました。
彼女は、すくすく成長し、やがて結婚して3人の子どもを授かります。子どもの参観日や行事にも積極的に参加されてきました。しかし、脳性まひはしだいに体が動かなくなる病気で、40歳のころには電動車いすの生活になったそうです。その時古井さんは、こんなに便利なものだったら、もっと早く使えばよかった、これで行動範囲が広くなったと喜んだととか。パートナーの転勤に伴って、アメリカにも住みました。アメリカでは、電動車いすで神出鬼没の彼女を「車いすジプシー」と親しみを込めて呼び、あちこちで人気者だったそうです。
もし、彼女が生まれる時に「出生前検査」が行われ、重いしょうがいがあることが分かったら、もしかしたら自分はこの世に生まれることができなかったかもしれない、幸せな人生を歩むことができなかったかもしれない、と振り返ります。
人間は生まれてから死ぬまでに、介護なしでは生きてはいけません。赤ちゃんの頃は、排せつも食事も全介助が必要です。高齢になったらまた必要になるかもしれません。また、五体満足に生まれても、途中で病気や事故でしょうがい者になる人も少なくはありません。しょうがいがあることで、生まれてくる命を闇に葬るのなら、途中しょうがいになった人たちは、生きていても仕方がないのでしょうか?
生まれてこなければいい命など一つもない、と古井さんは言います。しょうがいがあって苦しむ、しょうがいの子がいれば親は不幸、というのは、社会がしょうがいを持った人たちに優しい社会ではないからだと。助け合いながら生きていくのが、人間の社会なのではないでしょうか。健常者だけが使い勝手のいい社会ではなく、誰もが生きやすい社会(ハード・ソフト共に)になれば、しょうがいが苦悩だとか不幸だとか思わなくてもいい、命が選別されることも無くなると。
そのような社会を作るにはお金が要ります。施設のバリアフリーにしたって、医療費だってそうです。すべての人が健常者で生まれ、生涯を通して健康で病気にならず、高齢になっても働き続け、ぽっくりと死ぬことができれば、社会保証は必要なくなります。社会に負担をかける人を排除しようという動きが、この出生前検査であり、優勢思想に繋がっている、と彼女は強調します。
それともう一つ、福島第一原発の事故で放射能がまき散らされました。当時のニュースで「ただちに健康には影響しない」と繰り返されました。しかし、放射線被ばくの深刻な影響がこれから生まれてくる子どもたちに出てくる可能性は、否定できません。もしかしたら、生存が苦痛でしかないような子どもや、支え続けても見通しの無い未来や目を覆いたくなるような不幸な生活があるかもしれない、という未来予想図が語られています。
もし、出生前検査で胎児の異常がわかり中絶をすれば、影響がなかったことにできます。母体血検査は、被爆被害を闇に葬る道具として利用されることも考えられる、と不安を口にされました。
それでも彼女は「生まれてこなければいい命なんてない」「命の選別はしてはならない」と締めくくりました。しょうがいは個人にあるのではなく、社会にあることに気づいて欲しい、と。
かなり重いテーマなんですが、古井さんのなかなか出てこない言葉に集中し、その明るさに引きつけられた2時間でした。どこかに、しょうがい者は不幸だと思っていた自分に気づかされました。彼女は強いから、しょうがいが軽いから、自分の子どもが健常者だったから、彼女だったからできた、などと批判的な声もあるかもしれません。それは、やはりしょうがい者に優しい社会なんて無理、だと思わされているからでしょう。誰しもが、生まれてくる権利を持ち、幸せを追い求める権利があります。それを互いにフォローし合える社会を目指したいと思います。