昨日は、2005年に尼崎のクボタと初めてアスベスト被害の交渉をされた、伊丹市の女性のお葬式でした。前日の通夜の夜は晴れていましたが、葬儀当日のその時間、空から大粒の雨が落ちてきました。在りし頃は、それは健やかな生活を心がけていました、と夫は挨拶で語っておられました。それが、突然の発病、普通の主婦がかかるはずのない中皮腫という病気でした。悔し涙だったのでしょう。
肺を片方摘出されてからは、生活すべてがしんどい、息が浅くて疲れる毎日だと伺ったことがあります。それでも、すべての被害者の救済のために活動をされていました。そのことが、彼女の寿命を縮めてしまったのかもしれません。片肺は内部障害と認定されないのはおかしい、と訴えられたことがあります。そのとき、厚生労働委員にメールを出しましたが、やはり対象外だということで、でも検討するという返事をいただきましたが、間に合いませんでした。ごめんなさい。
クボタは、周辺住民の被害の大きさに驚き、当初の見舞金から、額も大きくした救済金制度をつくりました。これらは、彼女を含め交渉の口火を切った3人の努力の成果です。でも、被害者は救済ではなく補償を求めています。中皮腫の潜伏期間は30~50年と長く、発見はきわめて難しく、発見されても進行は極めて早く、効果的な治療法がない、という地獄のような人生を被害者の方は強いられるわけです。命や健康はお金では償えません。せめて、医療費や介護費用の金銭的な負担がないような制度を作らなければなりません。一企業の補償ではなく、公害として認定することがより広い補償になるのではないかと考えますが、国もそれは認めていません。
アスベスト被害というのは、アスベストを扱っていた企業のみが責任を負うものではないと思います。ヨーロッパが被害を指摘してからも、日本で引き続きの使用が認められていました。それは企業にとって安くて使いよい素材だったからです。産業界全体の責任ではないでしょうか?人間のからだよりも経済効率や利益を追求した公害です。現在アスベストは使用を禁止されていますし、除去作業も進んでいます。50年もすれば被害者はいなくなるでしょう。高度成長期の中で生み出された被害者を忘れないためにも、公害認定し歴史に残す必要があると思います。