宝塚で、日本軍従軍慰安婦の証言集会に参加してきました。
今日、お話してくださった2人のハルモニ(おばさん)、お1人は17歳のときに、お1人は13歳のときに工場で働かないか、と声をかけられてついて行った、それが悲劇の始まりだったと話してくれました。13歳と17歳、今の時代で考えても夢見る乙女、男性も知らない少女が、戦争という狂気の中におかれた男性の性欲の受け入れ先にされてしまった、死の恐怖と背中合わせに。それを聞いたとき、涙が止まりませんでした。
悲劇は戦争の間だけではありません。終戦を迎えた慰安所の彼女たちは捨て置かれました。軍関係者はさっさと帰国したと言います。着るものも持たず、お金も持たず、帰国したい一心で港に向かい、朝鮮半島行きの船に何とか乗り込んでも普通なら3日で着く航程が1ヶ月以上にもわたり、上陸しても足止めをされ、故郷に帰っても家族も近所の人も、多くの男性の相手をしてきた娼婦と色眼鏡で見る、そんな仕打ちを引き続き受けて来られたのです。結婚もできない、子どもも産めない体になっている、職業にもつけない、普通の人間として生きる権利をも奪われた生涯なのです。
お二人は、80歳と85歳、いつ命が尽きてもおかしくない年齢です。ならば、穏やかな日々を過ごしたらいいの、と思われるかもしれません。彼女たちはこう言います。「私には家族も子孫もいない。何にも守るものはない。でも、戦争が起きると私たちのような女性が出てきます。まだ地球上から戦争がなくなったわけではありません。だからこの悲劇を世界の人に知ってもらいたいのです」と。
沖縄集団死が日本軍の強制によるものであった、という記述が教科書検定で訂正された問題、沖縄に人々は事実を知らせることを求め、世論もそうだ、と支持しました。従軍慰安婦問題は取り上げていない教科書もあります。政治家は南京大虐殺と並べて、でっち上げで根拠がない、と言います。でも、真実は1つ。証言も真実。私にできることは、その事実を1人でも多くの人に知ってもらい、国としての責任を果たすことを求める運動に繋げていくことだと思いました。
このブログを読まれた方、もう一度従軍慰安婦について考えてみてください。