私は死刑に反対です。人間が人間の手で合法的に殺人を認めることは、決して許されてはいないのだと確信しています。アムネスティ・インターナショナルジャパンの資料によると、世界で死刑を廃止している国は129カ国、存続を認めている国は68国と半数を割っています。
そんな国際的の流れの中で、日本ではここのところ死刑に対する積極論が社会で幅をきかせています。山口県光市の母子殺人事件の差し戻し裁判が24日から始まり、連日夫がテレビ画面に現れ、「死刑に」と訴えています。また、5月22日には、東大阪大学のリンチ殺人に対して「死刑に相当する」との判決が地裁で出ました。死刑の文字の氾濫はとどまるところを知りません。
遺族や被害者のお気持ちを考えれば、死刑を望むのはやむをえないと思います。終身刑でも更正の度合いによって出所も可能であることが、許されないのもわかります。しかし、2年先に陪審員裁判制度が開始になることを考えれば、安易に死刑判決を乱発することが、将来の判決に影響ないとは言い切れないと思います。
夫さんは、多数の弁護団や加害少年の証言のいい加減さに、同じ土俵で闘う気がしない、などと発言されていました。しかし裁判というものは、当事者同士では解決できないから、と検察側、弁護側と代理人と司法が客観的に判断を下す所ではないのですか?被害者や遺族の気持ちは痛いほど分かります。もし自分がその立場だったら、彼が言うように加害者に無罪の判決を下して社会に出して欲しい、それをすぐさま自分が殺す、と思いたくなるでしょう。しかし、それはあくまでも被害者の思いです。それをメディアが、まるで被害者が法律であるかのように報道し、死刑賛成論をぶつのはメディアの役割としてあるまじき行為だと思います。
犯罪者を刑務所に留め置き、3食食べさせるのには、かなりのコストがかかると言われます。国にお金がないんだったら、更正の可能性のない囚人はどんどん死刑にしていけば、刑務所も空きができるし、コストも削減できる、という皮算用が働いているのかもしれません。そんな社会がすすめば、加害者と被害者が当事者同士として法廷にたち、その言い分を聞いた陪審員が判決を下す、被害者に同情すればするほど死刑が増えます、そうすれば刑務所も経費が節減できるというもの。
そんな効果をねらっているのでしょうか・