地震のあった日から16回目の震災の日がやってきました。今年は昆陽池の「つどい」に参加してきました。あの日とは比べ物にならない寒さの中、私もたくさんの人たちと一緒にろうそくに火をともし、消えたろうそくにまた火をともし、無くなられたたくさんのご冥福を祈りました。
地震から16年。まちは一見復興したように見えますが、震災で家族を亡くされた方、けがをされた方、震災を機に住みなれたまちをはなれ、一人で住むことを余儀なくされた方。傷跡はまだまだ深い。元気に過ごせている私たちにできるせめてものことは、あの日地震があった、と語り継ぐこと。
三宮で毎年行われている追悼の集いも年々参加者が減っていると聞きます。会の大きい小さいはそれほど問題ではありません。忘れないこと、語り継ぐこと、その経験を未来に活かすこと、これが大切ではないでしょうか。
あの日私は、当時住んでいたマンションが半壊状態になり、小学校に避難してください、と言われて桜台小学校の校庭に子どもと集まりました。小学校の被害も大きく、校舎の窓ガラスはバリバリに割れ、体育館の照明も壊れていました。何をしたらいいのか分からないまま、校庭に敷かれたシートの上に座っているだけでした。被害状況も全く分からずに動くこともできなかった私たちのところへ、三重県の両親が車で救助に来てくれたのです。聞けば、被害はかなり集中している、大阪あたりは全く何事も無かったかのような通常の祝日だ、という言葉にびっくりしました。情報の無さがどれほど不安になることか、を思い知りました。数日後、娘の誕生日に私たちは一時伊丹を離れました。救助もボランティアもせずに、自分たちが楽になることを優先した、それが胸にささった棘になっています。