涙にくれた昨日3月11日、私は違った涙を流しました。
大好きなポンタが亡くなりました。1999年に我が家にやってきて、およそ16年の生涯を閉じました。大切な大切な家族でした。
動物愛護団体の、貰い手のいない柴犬の子どもをもらって欲しい、の広告に元夫は飛びついて、一人でその子を迎えに行きました。自宅は春日丘と大鹿の角っこの家。庭(のような駐車場)に繋いでいると、たくさんの人が可愛い可愛いとかまってくれました。名前は?と聞かれることも多いので、犬小屋にカラーテープで「ぽんた」と書いておくと、登校途中の小学生さんや中学生さんや県高生さんたちが、ポンタ!おはよー!と毎日声をかけてくださいました。本当にたくさんの人に可愛がっていただきました。
柴犬と思っていたのが、とんでもなく、紀州犬とシェパードのようなルックスで、体重は最高で40キロ近くにもなりました。佐川急便のトラックが嫌いで、配達の人はいつも嘆いていました。クロネコヤマトは大丈夫なのに。お向かいの喫茶店ルフランさんのお客さんは、モーニングのトーストやゆで卵をくださいました。あんまりいただくことが多いので、「ごめんなさい」の張り紙をしたこともあります。夏には毎朝アイスクリームを持ってきてくれる紳士もいらっしゃいました。
ここ数年、まず目が白内障にかかりだんだんと見えなくなり、ついで耳が聞こえなくなって吠えなくなりました。耳におできができて、足でひっかくものですから、ちっとも治らなくて。体重もピークに比べて10キロ近く減りました。それでも、散歩が大好きで、私の当番の時は子犬のように尻尾を振り早く早くとせがみました。食欲も全く落ちることが無く、亡くなる前の晩までしっかりと食べていたのに。人間でいえば、80歳をはるかに超えた年齢になるとか。老衰だったのかもしれません。ただ、息を引き取る間際には誰も居てあげることができなかったことが、かわいそうで。朝には動かなくなっていたのです。
伊丹市の斎場に連れていこうかとも思いましたが、家族として16年も一緒に暮らしたポンタ。ちゃんとサヨナラをしようと、宝塚動物霊園にお願いして、お葬式をしました。他のわんちゃんやねこちゃんと同じ合同火葬と合同埋葬を選びました、寂しくないように。
共同墓は、御殿山から伊丹市の我が家を見下ろします。ポンタはいつも自分の家を眺めることができます。私も、会いたくなったらいつでもここに会いに来ることができます。
ポンタ、さよなら、そしてありがとう。