1月16日の朝刊に、「飛鳥、未知の大古墳か?」という記事を見つけ、さっそく18日に開催された現地説明会に参加しました。
(朝10時からのところを繰り上げて9時からスタートした説明会、午前中にすでに5000人を超えた。私のような年配の人がほとんど)
発見場所は、奈良県明日香村川原の小山田(こやまだ)遺跡です。ここは、奈良県立明日香養護学校(特別支援学校、という呼び方は使っていないようです)が建っている敷地で、校舎を建て替えるのに、埋蔵文化財発掘調査をしたところ、今まで見たこともないような立派な(割堀(溝というかお堀)が出てきてしまった、のです。
小山田遺跡は、その存在は古くから知られていたようです(現地説明会によると)。明日香村文化財調査研究紀要‐創刊号(平成12年3月 明日香村教育委員会)には、「甘橿丘南麓へと延びる尾根を削平して、約80m四方の平坦面が形成されている。現地にはすでに養護学校が建設されており、遺構の検出は難しいが、「旦波國多貴評草上」と気された木簡が出土している(和田1991)。また、南の谷では東西道路と交差する南北道路が検出されており、小山田移籍への進入路と考えられる(明日香村1998)」という記述があります。木簡が出土したことで注目を浴びたけれども、発掘調査は難しいと考えられていた、というのがこれまでの研究結果だったのですね。それが養護学校の建て替えで発掘調査をしたところ、考えもしなかったような世紀の大発見となってしまった。
なぜ、こんなにも大規模な遺跡が調査もされなかったのか、もし養護学校の建設当時に発掘調査がなされていたら、石積みの割堀はほぼ完全な形で発見されたかもしれません。駐車場の係の人に、なぜ当時は発見されなかったんでしょうね、と尋ねると、当時は建設するときに発掘調査をしなければならないという決まりが無かった、とにかく必要な施設を建設するのが先だったということではないですかねえ、というお話をしてくれました。今は、1平方メートル以上の建設工事の際には、先だって埋蔵文化財があるかどうか発掘調査をしなければならない決まりになっているそうです。
(遺構の全長は見つかっている部分でも50メートル、全体はもっと大きいはず)
(石の無い土の部分は元の校舎の柱跡。立つ前はずらりと石積みが見られただろう)
さてさて、見学者の想像の翼は埋葬者は誰だったのか?というところへ飛んでいきます。平らな石積みが舒明天皇稜と同じ様式だから、舒明天皇(天智天皇のお父さん)の最初のお墓だろう、という人。いやいや、曽我氏の御殿があったところだから、曽我氏の墓ではないか、などなど。橿原考古学研究所では、その大きさ(曽我馬子が埋葬された墳墓である石舞台よりも大きいので、豪族以上の埋葬者の可能性が高い)や特別な様式から、舒明天皇が最初に埋葬された場所との見方を明らかにしています。
(復元予想図。左側の平らな石積みの上に墳墓が盛られていたのではないか、とする。今回見つかったのは、堀の底の部分になる)
明日香にはまだまだ知られていない日本の歴史が隠れているのですね。